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2025年度ピースアクションinヒロシマ参加報告

実施期間
2025/08/04 (月) ~ 2025/08/05 (火)
開催場所
広島市
主催
広島・長崎両県生協連と日本生協連

広島・長崎両県生協連と日本生協連では「被爆体験の継承や核兵器のない世界への思いを共有する場として平和活動である、「ピースアクション」に取り組んでいます。

2025年8月4日・5日、被爆・終戦80年の節目の年に広島市で開催されたピースアクションinヒロシマに、全国の生協が集まり、とやま生協から組合員親子4組8名が代表として参加しました。

 

<8/4(月)午後:「被爆した子どもたちが書いた原爆詩の参加型朗読会」分科会>

「被爆した子どもたちが書いた原爆詩の参加型朗読会」に参加しました。「演劇集団ふらっと」指導の下、2~3歳で被爆した子どもたちが7年後に原爆詩として書いたものを6グループにわかれて朗読を発表するという分科会でした。「朗読は言葉になっている部分をうまく読もうとするのではなく、その詩の背景も想像しながら大きく声を出すこと」「自分の分担だけ読むのではなく、他の方が読む部分も声を出さずに一緒に読むこと」と教わり、何度も読んでいくうちにその詩を書いた子の気持ちや思いも伝わりました。最後の発表の時にはみなさんが詩の一字一句を心込めて朗読しておられました。

「演劇集団ふらっと」から説明を聞く

「演劇集団ふらっと」の実演

各グループの発表のようす

 

<8/4(月)午後:袋町小学校平和資料館見学>
当時、被爆した袋町国民学校(現在の袋町小学校)の一部が現在も資料館として残されています。袋町国民学校は爆心地から460mの位置にあり、教職員・児童ら160人全員が直撃を受け、生き残ったのは数人でした。凄まじい爆風と高熱により外郭のみを残し廃墟となりましたが、数日後に被爆者の救護所として使用されました。焼け焦げた壁には、家族を探す伝言板として使われた跡が残っており、当時の混乱の中どのような気持ちで伝言を記していたのかを考える機会となりました。

当時の被爆の状況を学びました

壁は家族を探す伝言板として使われました

 

<8/4(月)午後:「山田寿美子さん(被爆の証言)」分科会>
山田寿美子さんから当時2歳で爆心から2.3㎞で被爆し、父親は遺骨すらない状態で亡くなり、母親も8/23に急性放射線症(当時は原因不明)で亡くなり、戦災孤児として兄姉と一緒につらい人生を過ごしてきたお話を聞きました。大学卒業後は、医療ソーシャルワーカーとして被爆者と38年間、ケアマネージャーとして訪問しながら被爆者の悩みを聞いて、同じ被爆者として様々な相談にも応えてこられました。
「被爆者差別は現在でもあり、そのことが理由で、自ら被爆者と名乗られない方もおられる。広島でも被爆体験を聞いたという方は広島市の人口の35%しかおられず、福島原発の被災地へ被爆体験の話に行った際には被爆体験を聞いたことがある方は誰もおられなかった。だからもっと被爆の実相を多くの人に知ってほしいし、特に若い世代に方にはその思いを継承していってほしい。二度と被爆者や戦争孤児を作らないように平和な社会を残していってほしい」と語られました。

被爆体験を語られる山田さん

被爆体験を聞くピースアクション参加者

 

<8/5(火)午前:広島平和記念公園>
平和記念公園周辺にある爆心地や、原爆ドームなどがある平和記念公園を巡り、平和記念資料館を見学しました。

【原爆ドーム】
広島県産業奨励館といわれ、地上3階・地下1階のモダンな建物でした。原子爆弾の投下により、建物は一瞬にして大破し、人々も死亡しましたが、ほぼ爆心直下のため衝撃波が真上から襲いかかったため、建物倒壊は免れ、ドーム部分は象徴的に残っています。1996年には世界文化遺産に登録されました。

原爆ドーム碑の前にて記念撮影

資料館内には当時の模型も展示されていました

 

【原爆の子の像】
原爆の恐ろしさは、目に見えない放射能により、被爆して何年も経ってから白血病、ガンを発症し、多くの方が亡くなられたということです。今もこの放射能の影響は被爆者の身体をむしばんでいます。
佐々木禎子さんは、2歳で被爆し、その10年後、12歳で発病(白血病)しました。鶴を千羽折れば幸せがやって来ると聞き、回復を願って鶴を折り続けましたが、9か月後帰らぬ人に。この死をきっかけに、禎子さんの同級生たちが原爆で亡くなった子どもたちの霊を慰め、平和を築くための像を作ろうという運動を始め、全国からの募金で「原爆の子の像」が完成しました。このブースには毎年1千万羽もの折り鶴が届けられており、「折り鶴」の像とも呼ばれています。この日も全国各地から寄せられた折り鶴が奉納されていました。
とやま生協の組合員さんから寄せられた折り鶴も、ピースアクション㏌ヒロシマ参加者の親子が千羽鶴にして、みなさんの平和の思いをヒロシマの地へ届けてきました。

折り鶴をお届けしました

組合員さんから寄せられた折り鶴を参加者が千羽鶴にしました

 

【広島平和記念資料館】
平和の灯(ともしび)、原爆死没者慰霊碑を参拝したのち、広島平和記念資料館を見学しました。国内や海外からも大勢の方が見学に来られ、館内がごった返す中、原爆が落とされ人々が苦しむ様が描かれた絵や、焼け焦げ炭化した遺品から原爆の凄まじさと被害の大きさを学びました。また、戦後、アメリカやロシアを中心とした核兵器開発の核実験によって多くの被爆者がいることも記されており、世界各地に多くの被爆者が存在し、その被害の実相があまり知らされていない現状に驚かされました。

昨年、日本原水爆被爆者団体協議会(日本被団協)がノーベル平和賞を受賞しました。広島・長崎の被爆者がずっと被爆の実相を世界に広げ「二度と私たちのような悲惨な思いや体験を人類にさせてはいけない」との思いが世界の中でも大きく支持される動きになってきました。

終盤には、「核兵器禁止条約」の署名・批准の現状が分かるパネルも展示してありました。日本はまだこの条約の批准・署名をしていないことを知らない方も多く、唯一の戦争被爆国である日本が核兵器禁止条約を批准し、世界に核兵器の恐ろしさを発信し続けることの大切さを学びました。

核兵器禁止条約の署名式のようす(2017年国連)

ノーベル平和賞の受賞メダルや賞状(複製)の展示

 

「被爆者が描いた原爆の絵」11号碑が完成しました!

「被爆者が描いた原爆の絵」11号碑が完成し、とやま生協からも募金をおこないました。
 8月6日のあの日の光景が、鮮やかに衝撃的に描かれた絵が、実に4,000枚も広島平和記念資料館にデータ保存されています。生き残った被爆者が、渾身の思いを込めて描いた≪あの日の爆心地の光景≫です。これこそ、被爆者の遺言ならぬ遺画です。
 「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」(事務局:広島県生協連)は、被爆者が描いた原爆の絵を陶板に焼き付けて、街角に設置する運動をすすめており、これまで10基設置してきました。今年は被爆80年の節目の年でもあり、19年ぶりに11号碑を建設し、7月22日に除幕式がおこなわれました。
 この11号碑建設には、全国78生協(連)から、約900万円の募金が寄せられました。とやま生協からも10万円、平和募金より建設募金をおこないました。原爆ドームを望む広島市中区本川町(相生橋西詰河川緑地)に設置されています。

 今回の訪問では、参加者のみなさんと「被爆者が描いた原爆の絵」11号碑にも足を運びました。絵に残された当時の様子を想像しながら目の前の原爆ドームを見つめていると、被爆者の想いや原爆の凄まじさがまざまざと伝わってきました。この絵碑がより多くの人に平和の大切さを訴えるメッセージになることを願って、みなさんとともに原爆が投下された「あの日」に思いを馳せました。

 

 

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