2025年11月28日(金)、29日(土)の2日間にわたって、2025年度の「福島復興支援 視察交流ツアー」が行われました。
このツアーは、東日本大震災や東京電力第一原発事故によって「福島県で起こったことを忘れない・風化させない」ために、震災翌年の2012年から行われてきました。現地に足を運んで地震や津波、原発事故によって福島県が受けた被害の大きさや現在の復興状況について学んだり、避難生活を過ごしていた地元住民の方からお話を聞いたりすることで、福島の今を知り、今後の支援を考えていくことが目的です。
今回は組合員・役職員、富山県生協連より計32名が福島県を訪問。みやぎ生協・コープふくしまの菊池さん、宍戸さん、斎藤さんに現地を案内していただきながら、主に原発事故の影響が残る地域を周り、被災当時の様子や福島のみなさんの復興に向けた思いを学びました。
一日目 11月28日(金)
最初の目的地に向かう道中、福島第一原発にほど近い双葉町の駅前を通り、バスの中から街並みを視察しました。双葉町は福島第一原発事故が発生した直後から帰還困難区域に指定されており、2022年8月30日に避難指示が解除されたものの、住民のほとんどは帰還できていない状況にあります。
地震で崩れた家屋も、駐輪場に止められた自転車も、被災した当時のままの姿で残っていました。震災から14年が経過した今でも残っている震災の爪痕に、参加者のみなさんも驚きを隠せない様子でした。

震災の爪痕が残る双葉駅前の街並み

駐輪場に残ったままの自転車
街並みを視察した後に訪れたのは、福島県双葉町にある「東日本大震災・原子力災害伝承館」です。この伝承館では、原子力発電所が建設された歴史から、東日本大震災によって発生した原発事故の様子やその原因、避難生活を強いられた当時の人々の記録を写真や映像、当時使用された物資などの展示を通して学ぶことができます。
震災直後に発生した津波の実際の映像を視聴したみなさんは、その被害の大きさ・凄まじさに、思わず息をのみながら画面に見入っていました。
原発事故が発生した福島県では、長期にわたる避難生活が強いられた影響で体が衰弱し、避難の最中に命を落とす方も多かったそう。展示物から避難生活の実態についても目の当たりにし、参加者のみなさんは目に焼き付けるように記録や映像を丁寧に眺めていました。

原発事故が発生した当時のことを振り返りました

当時の様子が伝わる写真や記録などの展示物
続いて、「震災遺構 浪江町立請戸小学校」を訪れました。この小学校は震災発生当時、大きな津波の被害にあったものの、先生・生徒93名の全員が無事避難することができた学校です。
被害の爪痕がそのまま残されている校舎は、1階部分の壁が津波で流されてしまっており、冷たい風が入り込んでいる状態でした。重たそうな金庫やロッカーが瓦礫のように積み重なった異様な光景に、「こんなに重いものも流されてしまうなんて…」と衝撃を受ける方の姿も。
また、子どもたちが津波から避難した大平山を眺めながら「大平山に行ったことがある生徒がいて、道案内もしていた」という説明を聞くと、「こんなに遠い距離を生徒のみんなで逃げたなんてすごい」と驚きの声が上がりました。
小学校の視察後、みやぎ生協・コープふくしまの宍戸さんから、「何かあったら大平山」というのがこの地域の合言葉だったと教えていただきました。
「みなさんに考えてほしいのは、“あなたにとっての大平山はどこか?”ということです。家族と事前に話し合っておくことで、なにかあってもまた再会できる可能性が少しでも高くなります」とお話があり、改めて防災の大切さを体感する機会となりました。

震災遺構 浪江町立請戸小学校

津波の爪痕が残る校舎を見学

曲がってしまった蛇口からも津波の勢いを感じます
二日目 11月29日(土)
2日目は、はじめに相馬市にある「松川浦大橋」に足を運びました。東日本大震災の際、海に近い相馬市は津波の被害が甚大で、この橋にかかるくらいの高さまでの大きな津波が押し寄せました。下から橋の高さを仰ぎ見ると、当時の津波の大きさを体感することができました。

街並みを眺めながら、津波の被害がどこまで到達したかお聞きしました

橋の下に人が立ってみると、その高さがよくわかります
続いて、「相馬市伝承鎮魂祈念館」を訪問。震災当時の様子を記録した映像を視聴し、見学したばかりの松川浦大橋に向かって波が襲い掛かる様子を見て、津波の凄まじさに圧倒されました。
その後、スタッフの方が相馬市のジオラマを指しながら、被害が大きかった地域について「1回目の地震で防災無線が壊れてしまい、津波の情報が届かなかった。家を片付けるために戻ったり、避難するために家族の迎えを待ったりした方が、津波で流されてしまった」と当時の状況を詳しく説明してくださいました。

当時の鬼気迫る様子を感じる、当事者ならではのエピソードをお聞きしました
今回の視察の最後には、原発事故発生後に全村避難となった飯舘村を訪れ、語り部の佐藤美喜子さんから避難せざるをえなかった当時の様子や、現在の村の様子についてお話を伺いました。

佐藤美喜子さんより、原発事故の影響や想いをお聞きしました
飯舘村は震災や津波の影響が比較的少なく、当時は他の地域から避難してきた方の炊き出し支援を行っていました。しかしその後、原発事故の影響で全村避難の指示が発令。村中で「なぜ、何も起こっていないのに避難しなくてはならないの?」と大反対が起こりましたが、住民は様々な地域の仮設住宅に避難することになり、バラバラになってしまったそうです。
6年後に避難解除となりましたが、村でのくらしは以前のようなのどかな暮らしには戻らなかった、と佐藤さん。「若い人は戻ってこないし、隣の家にお茶を飲みに行くこともできない。地域のコミュニティが完全に分断されてしまいました」
「原発事故によって、形だけではなく、心や家族のありかたも変わってしまいます。地震は天災ですが、原発事故は人災です。福島で起こったことから学び、私たちの想いをみなさんにも伝えていってほしい」と力強い口調で結ばれました。

飯舘村で飲食店を営む千榮子さんとも交流しました
また今回の視察では、「買って支える」取り組みとして、浜の駅やサービスエリアにも立ち寄りました。相馬市の名産であるあおさや福島県産の桃を使った商品が大人気で、みなさん自分用にもお土産にもと買い物かごをいっぱいにして、お買いものを楽しみました。

2日間の視察ツアーを通して、参加者のみなさんからは「今もなお爪痕が残る光景を目の当たりにして、当事者の方のお話を聞く中で、震災や原発によって一日であっという間に人生が変わってしまうことを改めて感じた」「復興を進めている福島のみなさんに対して、”がんばってくれ”というのも違うと思うが、どうやって言えばいいのかわからない。自分なりのことばで、福島で起こっていることを周りに伝えていきたい」などの感想が聞かれました。
来年3月で、震災発生から15年が経過しようとしています。今回の視察では、新たに福島県復興祈念公園やホテルの建築がすすんでいて復興の息吹を感じる地域もあれば、震災直後のまま復興が進んでいない地域もあり、地域による大きな差を感じました。
みやぎ生協・コープふくしまの斎藤さんからは「福島の復興はマイナスからのスタート。避難解除がされて、ようやく復興のスタートラインに立ったような状況です」というお話もありました。避難したまま人が戻らない地域や原発の廃炉に向けた問題など、震災や原発事故の影響が色濃く残っており、地域の再興にはまだまだ長い道のりがあります。
とやま生協はこれからも、復興への道のりを歩む福島のみなさんの想いに寄りそい、福島が抱える問題をともに考え続けることで、復興支援を続けていきます。
参加者の感想
- 地震・津波・原発事故。その地を訪れ、本当に大変なことが現実として起こったんだと実感することができました。福島復興の歩みは牛歩の歩みかもしれませんが、未来に受けて一歩ずつ進んでいると信じ、いつまでも応援したいと思いました。
- 現地に行くことの大切さを実感しました。大平山霊園・慰霊碑から見た浪江町の景色が忘れられません。確かにそこに合った街並み、人々の暮らしが一瞬に失われてしまい、ただ野原にポツンとたたずむ請戸小学校が津波の恐ろしさを語ってくれていました。行って、触れて、知って、伝えることが大事だと思いました。
- 被災地で津波のビデオ映像を見ると、生々しく当時を思い出しました。14年前はテレビで何度も見て驚いていましたが、自分自身の中でだんだん忘れかけているのを申し訳なく思いました。忘れてはいけない、風化させてはいけない、自分事としてしっかり感じ続けていかなければならないと思いました。


